Water Library 028

・・水のほん“Water Library ”・・・

~・~・水にときめいて・~・~

 

 

来週月曜日7月17日は海の日の祝日です。
暦をみると8月1日は水の日、8月11日は山の日の祝日。そして今月7月は河川愛護月間です。国土交通省は平成8年度から7月7日を川の日と定めていますが、川の日も祝日になるとよいですね。さて、今回は川にちなんで、『タマゾン川 多摩川でいのちを考える』をご紹介いたします。


著者の山崎さんは1959年(昭和34年)神奈川県川崎市多摩区に生まれました。多摩川から2キロメートル離れた丘の上にご自宅があり、多摩川まで子供の足で歩いて1時間ほどでしたが、学校から帰ると毎日のように川で遊んでいたそうです。
これを読むと自分の子供の頃も同じように川で遊んでいたことを思い出します。海岸から徒歩15分くらいのところにあった川でしたが、丹沢の山並みや遠くに富士山、まわりは一面緑の田んぼが広がり、川の風がここちよく、水の流れに足をひたすと意外に流れがはやくて、足をすくわれないように立っているのがやっとでした。男子たちは泳いだり、フナやドジョウやタニシを捕ったり、川べりの笹薮に秘密基地をつくって漫画やおもちゃを持ち込んで遊んでいました。きっとそんなふうに同年代の山崎さんも遊んだのではと想像いたしますが、この本によるとその当時から多摩川には熱帯魚のグッピーが棲んでいたそうです。

まもなく高度成長時代がはじまり、多摩川は生活排水が流れ込み、茶色の泡がぶくぶく浮かんで、汚れて悪臭の漂う「死の川」になりました。川をみつめ続ける山崎さんは、そんな死の川へと変わってしまったのはあっという間だったといいます。

私の友人で高度成長期以前の多摩川を知る人は、天然の鮎やウナギがとれて、いま若者が集まる二子玉川あたりではメダカがたくさん泳いでいたと話していました。多摩川中流の登戸はむかし宿場として栄え、天保元年(1830年)創業の老舗「柏屋」では川魚料理を受け継いでいますが、山崎さんの話によると以前はもっとたくさんの料理屋が軒を連ね屋形船もあったそうで、お酒がふるまわれ三味線の音色と歌声で、それはにぎやかだったそうです。


多摩川はその昔、万葉集にもうたわれるほど、情緒豊かな川でした。
「多摩川にさらす手作りさらさらに 何そこの児のここだかなしき」(万葉集 東歌 14-3373)
~多摩川にさらす手作りの布のように、なぜこの子はこんなにも愛しいのだろう~
7,8世紀ごろの当時、多摩川近辺は麻や絹の特産地で、税(調)として布を朝廷に納めていました。世田谷に砧という地名がありますが、「衣板(きぬいた)」でたたいて柔らかくし、つやを出してその布を染めて多摩川の清流でさらして洗ったようです。このことに関して興味深いサイトをみつけましたので、抜粋してみます。
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http://www.asahi-net.or.jp/~hm9k-ajm/musasino/musasinomannyousannpo/azumauta/tamagawani/tamagawani2.htm より

「手作」って何?
 さて、人気のある「この児」が多摩川に曝している「手作」って何でしょう?
 議論が分かれます。やれ麻の布だ、いや絹だ!! なぜ川に曝すのか?

 高校の歴史の時間ではありませんが、ちょっとばかりお付き合い下さい。この時代、まだ貨幣が一般的に流通していませんから、税は物で納めました。いわゆる現物貢納です。そして、大まかに「租(そ)」「庸(よう)」「調(ちょう)」に分かれていました。

 「租」は、口分田からとれる稲などの収穫の一部(建前上ですが)を納めるものでした。
 「庸」は、国の土木仕事などに一定(基準は年に10日間)の労役を提供するものです。労役の代わりに、布(約8メートル)を納めて、すますこともできました。
 「調」は、土地の特産物を納めるものです。武蔵国では圧倒的に布が多かったようです。中には鮒の背開きをした物を納めたところもあります。(参考 その他の負担=雑徭(ぞうよう)、出挙(すいこ)、兵士(ひょうじ)、防人(さきもり)、衛士・仕丁などがあります)

 延喜式では武蔵国の調について、織物に関しては、次のように定められています。
 ①絹織物=「帛(はく)」・・・緋(ひ=あか)60疋、紺60疋、黄100疋、橡(つるばみ=トチの木の色)25疋
 ②麻織物=「布(ふ)」・・・・紺90端、縹(はなだ=薄い藍色)50端、黄40端
 ③その他=あしぎぬ(JISでは漢字が打ち出せません=粗い絹糸で織ったもの)、色の付かない布

色つきの絹織物と麻織物
 ややこしくなるのでこれ以上は省略しますが、びっくりするほどの多品種です。「この児」が曝していたのは、
  「染料で染めた色つきの絹織物」や「色つきの麻織物」。
  「色のつかない あしぎぬ」、「色のつかない麻布」
 などだったようです。染料は武蔵野でとれた植物質のものでした。

 友禅流しや縮(ちぢみ)流しの様子が現在も、特産・名産として報道されて、目にすることが出来ます。風景としてはそう変わりがないと思われます。ところが、中身が大違いでした。

 「この児」たちが扱う絹織物は蚕糸が上・中・下と区分されました。粗い絹糸で織ったものは、品落ち、その他に分類されて、貢納する量が増やされたようです。(蚕はもう飼っていたのでしょうか?)
 麻織物は武蔵国の場合、楮(こうぞ)や苧麻(からむし)の木からとりだした繊維を織って、砧(きぬた)でついて柔らかくし、水に曝して漂白しました。その工程は驚くほど根気と長い時間を必要とするものでした。(これらの技術はどのようにして身につけたのでしょう?)

 歌はおおらかに愛を歌い上げていますが、実際の生活は相当に厳しかったように思われます。逃亡する農民が出たり、逃亡した農民を囲い込んで、有力者が使用人とする動きが出始めたと想定されるのがこの時期です。

 織り上げた麻布も、武蔵野の農民は大事に大事に貴重な衣服として使ったのでしょう。それが、都では用途も広く、屏風をしまう袋や屏風の下張りに使われている現物が残されています。律令制社会の実像を見る思いです。
(中略)
0.2ミリの上質の麻布。技術は高度であったようです。しかし、品質のよいものは貢納品で、久保田さんが言うように、農民の日常品は山藤や苧麻でつくったごわごわの物だったのではないでしょうか。

長尺を曝した「この児」が曝した「手作」は、随分と長い物であったようです。養老元年(717)の決まりでは「調布は長さ4丈2尺 幅2尺4寸」とされていますから、約72センチ幅、長さ12メートル余の布を水の流れの中で、操っていたことになります。それこそ、手さばきは見事でなければ、絡まるし、流されるで、男どもの賛辞が飛ぶのも当たり前です。

実物は正倉院に
 当時の実物が正倉院に残されて、写真を見るだけでも感激します。ちゃんと納めた人の名前や、関係者の名前が書き込まれ、ハンコが押されています。制度の仕組みがそのまま目に浮かびます。特に武蔵野の歴史で面白そうなものを拾ってみると

 武蔵国男衾郡猟倉郷笠原里飛鳥部虫麻呂調布1端
 武蔵国加美郡武川郷戸主大伴直牛麻呂戸口大伴直荒当庸布1段
 以下省略

などです。上は「調」で納めた物。下は「庸」で納めた物。男衾郡には猟倉郷があって、笠原里があります。古代の地方行政の仕組みがそっくり揃っています。また、飛鳥部が置かれたこともわかります。なんと面白いことを含む書き物(墨書銘)でしょう。

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さてさて話が万葉の時代へと遠回りしてしまいましたが、
1970年、全国各地で公害問題がクローズアップされ、この年の国会は「公害国会」と呼ばれ、水質汚濁防止法などの14の法案が一度に成立し、翌年環境庁(現在の環境省)が設置されました。その後、多摩川の流域に下水処理場がたくさん建設され下水処理技術も進んで、多摩川は見違えるほどきれいになり、川の汚れを表すBOD(生物化学的酸素要求量 ㎎/L)の数値が今では平均2に改善されました。2以下は「きれい」(清流のイワナやヤマメがすめる)、2以上3以下は「ふつう」(アユがすめる水質)です。多摩川はすっかりきれいになって再び鮎の遡上がみられるようになり、河口の干潟ではシジミが復活しました。

このような水質の変化だけでなく、山崎さんのお話を読んで驚いたのは外来種の魚やカメが多摩川に多く生息して、在来種をおびやかしているということです。山崎さんは思わず「これじゃタマ川じゃなくてタマゾン川ですよ」ともらしたそうですが、この一言が新聞に大きく取り上げられて雑誌やテレビなどでも注目されて世界中に発信されました。その種類は確認されているだけで200種類を超えるそうです。

・南米アマゾン川から…シルバーアロワナ、ピラニア、タイガーオスカー、セルフィンブレコ、タイガーショベルノーズキャット

・北アメリカ原産…アリゲーターパイク、ストライプトバス、ロングノースカー、アメリカナマズ

・アジア;タイ…スカンクボディア
     インドネシア…クラウンローチ
     中国…カムルチー、ケツギョ  など

その他オセアニア、オーストラリア、パプアニューギニア、アフリカ、ヨーロッパ各地からと国際的な様相をみせていますが、こうした外国からやってきた魚たちは在来魚を食べつくしてしまう問題があります。輸入して買っていのちの終わりまで面倒を見ないで捨てる人が大勢います。その結果のタマゾン川なのです。
“タマゾン川は人間の無知と身勝手さがうんだ川なのです”(p53)

山崎さんは「おさかなポスト」を設置して魚を保護する活動を始めました。この運営についても興味深い話が本書にいろいろと書かれています。この本を拝読して考えさせられたのは、東日本大震災の計画停電のときのことです。
もし、電気が来なかったら下水を処理できなくなり、そのまま多摩川に流れて、川はまた死の川になってしまうのではと山崎さんはとても心配したのだそうです。
“多摩川は「電気の川」なのです”(p158)

私たちはいかにふるさとの川に守られて生活しているか、あらためて感じます。小田急線の鉄橋の下の多摩川では、昔はボート遊びをする人や釣り人が多くみられて市民の憩いの場になっていたように思いますが、近頃は護岸工事のためか人影を見ません。
まず、川に親しむこと、川の素晴らしさを知ること、そうすれば何かが変わるはずだと、山崎さんは言います。

“流れに足をひたしながら、わたしは思います。
 どんなに川が汚れたときだって、この流れが止まることはなかった。
 前に進み続ければ、きっと変わる。
 みんなが「多摩川はわたしの川なんだ」と思えば、ひとりひとりがこうやっていのちを感じれば、きっと変わる”(p174)


世界の文明は川の近くで生まれました。川には人間の文化が息づいています。まずは川に足をのばして親しみたいものです。登戸駅から徒歩約10分の多摩川のほとりには二ヶ領せせらぎ館があり、多摩川のいきものや植物を展示していて近づいて見ることができます。最近見たテレビの科学番組(NHK・Eテレ「サイエンスZERO」)で、水中の環境DNAで水生生物の生態調査ができるという話題をとりあげていました。絶滅危惧種や希少生物種の調査をも可能だそうで、太平洋のある地域にニホンウナギが周遊して生息しているのをつきとめていました。この方法は、水中の生物が水のなかに残したフンや身体の細胞の破片からDNAを調べて、どんな生物がその周辺にいるかを、透明に見える水の中から探り当てるというものです。現在3万種の水中生物に対して7000種のデータベースがあり、遠い山中の水域や広くて深い海域の周辺を何日もかけて探し回らなくてもわずかコップ1杯ほどの一定量の水を分析するだけで、水をみてきたようにできるということでした。水の中には、微生物も含めて多種多様ないきものが生活しています。人間の身勝手で住処を奪わないようにしたいものです。


また川の日の話にもどりますが、国土交通省が「川の日」を制定した理由は、
 ①  7月7日は七夕伝説の「天の川」のイメージがあること
 ②  7月が河川愛護月間であること
 ③  季節的に水に親しみやすいこと
だそうです。

「川の日」を定めた趣旨は、
① 近年、都市の発展、治水事業の発展などを契機に、希薄化した人と河川との関係を見直し、河川に対する人々の関心を取り戻すこと
② 地域の良好な環境づくりなどについて流域の住民・自治体が一緒になって考え、取り組む、といった地域の活動を支援すること

おもな活動として、
・地方公共団体、川に関するNPO等に幅広く「川の日を」契機とした河川に関する諸活動の推進をよびかける。
・河川と国民との関わりとその歴史、河川の持つ魅力等について広く国民の理解と関心を深めるような各種行事、活動を実施する。
としています。(国土交通省HPより)

この春越してきた家の近所に、多摩川の支流の五反田川の水源があることが分かりました。この丘で湧き出た水が下流に向かうにつれてだんだん太い流れとなり、ゆくゆくは東京湾に注ぎ太平洋を越えて地球の裏側までつながっていくのだと考えると、はるかな世界が目に浮かぶようで空気まで違って感じられます。水を汚さない、節水に心がけるなど、いつまでも美しい川の恵みをみんなで受け取ることができるようにしたいものです。

(2017/07/13)

 

 

【28冊目】Data

   タマゾン川

      多摩川でいのちを考える

 著者 山崎(やまさき)充哲(みつあき)

   2012年7月 旬報社

 

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