Water Library 026

・・水のほん“Water Library ”・・・

~・~・水にときめいて・~・~

 

作家の米原万里さんは2006年5月に56歳で惜しくもこの世を去り、もう10年の月日が経ってしまいました。

東京で生まれた米原さんは9歳のときに、父親の仕事(国際共産主義運動の理論誌の編集局で派遣)の関係で、チェコのプラハで過ごし現地の学校に通いました。ロシア語が堪能で、帰国後は東京外国語大学でロシア語を学びながら演劇や民族舞踊にも熱中し、その後東京大学大学院で修士課程を修了したあと、1980年に仲間とロシア語通訳協会を設立し事務局長に就任、通訳として活躍されました。作家としても卓越した才能を発揮され、数々の受賞作があります。

 

1984~1986年、TBSテレビ「シベリア大紀行」に通訳として参加、

200年前にロシアを訪れた日本人大黒屋光太夫(だいこくやこうだゆう)の足跡を追う番組取材に同行し、厳寒のシベリアを横断したときの仕事をもとに初めての著作を書きました。それが、『マイナス50℃の世界』(1986年刊行 現代書館・絶版)で、今回ここに取り上げた本書は、同題の清流出版刊を再構成のうえ文庫化されたものです。

 

さて、1980年代に入り東側社会主義圏が急速に崩壊し、東西の冷戦時代の終わりが近づいた1985年には、スイスで米ソ会談が開かれ、ソ連のゴルバチョフ書記長の会見が世界中に中継され、米原さんは日本のテレビ局で同時通訳をこなし、その後ゴルバチョフ書記長が国内外に対する改革路線「ペレストロイカ」を打ち出したことから、さらに仕事が激増し寝る時間もなく飛び回りました。彼女の機転の速さ、知性とユーモア、記憶力、困難に立ち向かう強さが当時のテレビ画面の笑顔から伝わってきましたが、今もお元気でいらしたらととても残念です。

 

 

この本の書き出しは、1985年4月2日付けの「お元気ですか。こちらはもうすっかり暖かくなりました。外の気温はマイナス21度。暑いほどです」というヤクート自治共和国(現サハ共和国)のテレビ局員から、米原さんに届いた手紙で始まります。

 

北極よりも寒いというヤクートに暮らすヤクート人は黄色人種で日本人にそっくり、米原さんはすっかり親しみをもったそうです。

 

現地に行く前にTBS取材班は、東京・晴海にある魚用の冷凍庫でカメラや防寒着が酷寒の中で何カ月にもわたる取材にたえられるか、テストして備えてから行きました。けれど、マイナス39℃の空港に降りた瞬間、チクチクさす痛みが鼻をとおりぬけ、鼻毛や鼻の中の水分が凍り、あわててマフラーでおおいましたが、みるみるうちに鼻や口のあたりが水分で白く凍っていきました。でも現地の人たちは口をそろえて言ったそうです。

「みなさんは日本から暖かさを運んできてくれましたね。マイナス39度なんて、こんな暖かい日は久しぶりです」

 

マイナス40℃になると、“居住霧”という霧が発生します。

人間や動物の吐く息、車の排ガス、工場のけむり、家庭でにたきする湯気の水分が、ことごとく凍って霧になり、視界が悪くなり撮影はむずかしくなるのだそうです。

太陽は午前11時ごろにもったり出てくるかと思うと、午後2時すぎにはそそくさとかくれ、日照時間は1日4時間足らずです。

 

永久凍土の上に建つ木造家屋は、地質が凍ったり融けたりをくり返すうちに土台がねじれ、ひん曲がっています。水道、下水、給湯、暖房用などのパイプは断熱材でおおわれ、地上80センチあたりにむき出しに配管されています。

地表近くに埋設すると、家と同じようにひん曲がってしまう。一見ぶかっこうな、むき出しになったパイプを、極寒に生きる人々の執念や知恵を見る思いがすると書いています。

しかし、1950年代から新しい工法が開発され、市内には4~5階建てのビルもあります。永久凍土の地中に塩水を流しこみ、基礎ぐいを固定して支える方法で建てられているそうです。

 

 ヤクートは湖と海と河川の国です。70万9千の湖と、2万3千の大小の河川があり、水の部分が多いくらいで、冬の交通の手段は道路より氷が張った河川です。

 

ヤクート人は凍土のおかげでずいぶん得をしているそうです。ちょっとあなをほれば、天然の冷凍冷蔵庫を持てるのです。

厚さ100メートルから200メートルの凍土層が地表の水域(湖や川)と地下水とを分けていて、地下水の蒸発を防いでいます。

 

“ヤクーツク市の水道も、実は、この凍土の下の地下水をくみ上げたものなのです。降雨量の少ないこの地域に安定した水の供給を保障しているのも実は凍土というわけです。”(p43)

 

 

しかし、街の水は発電所であたためられた湯が古い鉄管を流れてくるのでえらくまずい。しかしバイカル湖の水は冷たく甘く、この上なくうまいとも書かれています。

 

 

一方、マイナス58℃という厳しい環境で、「ヤクート馬」が人々の生活を支えています。

ヤクート馬の群れは雪原に放牧され、半分野生動物ですから、雪の中からエサの草をさぐり当てて食べています。寒さの中でそだった馬肉はあぶらののりも良く、特別おいしいといわれ、乳は発酵させて酒にして祭りの時に飲みます。一部のヤクート馬はソリや荷車の運搬に使われ、馬力があり、にんたい強く、おとなしいそうです。皮は、長ぐつやぼうし、手袋、コートになります。

ヤクート人の生活はヤクート馬なしには考えられないそうです。

 

ヤクートの家の窓は三重ですが、洗濯ものはマイナス68℃でも外にほすそうで、水分が凍ってかたまるので、取り入れるとき、ちょっとたたいて氷をおとせばいいのだそうです。

ヤクートは世界一寒い国です。そのオイミャコンではマイナス71℃という世界で一番低い気温も記録しています。釣った魚は10秒で凍り、プラスチックや人口繊維はコチコチ、コナゴナになり通用しません。しかし、住めば都で「寒くないと体の調子が悪くてガマンできない」、「はげしい寒さがないと気持ちに張りがなくなってしまう」という話も聞いたそうです。

 

「6月はまだ夏でなく、7月はすでに夏はでない」とヤクート人は言います、8カ月が氷と雪に閉ざされた冬、1カ月が解氷期の春、2カ月が夏、1カ月が秋という名の結氷期で、わずか2カ月ですが、夏は別世界になるそうです。

冬の反対で夏は日照時間が長く、草木が急激に生いしげり、刈っても刈ってもすさまじい勢いでのびて5回から7回も刈り入れができるので、この間に冬の干草を確保します。

 

「スキーやスケートは春先の暖かくなったときの遊び」と現地の子どもは口々に言ったそうです。というのは、寒い→氷→滑るは、私たちの暖かい国に住む人間の常識で、サハの人たちの常識は「寒いと氷は滑らない」です。氷の上を動くものとの摩擦熱で雪がとけて水の膜ができて、はじめてすべることができるのです。

 

 

東京では霜柱もめったに見られないほど、氷点下になる日は少なく、冬になれば寒いとぼやき、夏は暑いとついまた不平を言ってしまいます。マイナス50℃の中での生活は想像がつきませんが、世界を見渡せば、こんな暮しもあり、しかもどんな環境でも人はたのしむことができるのですね。驚くと同時に人間のたくましさに感心させられた一冊でした。

 

ところで、最近5万年前の微生物が美しく輝く結晶の洞窟の中からみつかったそうです。

 

鉄や硫黄などを食べて生きる微生物が、メキシコにある洞窟の巨大な結晶の内部に閉じ込められていたことが報告された。しかも、新種の可能性が高く、発見者である研究者たちの見方が正しければ、微生物は数万年もの間、休眠状態のまま生きながらえてきたと推測される。

 

 この発見が立証されれば、地球上の微生物は外界とのつながりを断たれた場所で、これまで考えられていたよりもはるかに厳しい環境でも耐えられるという説に、新たな裏付けを加えることになる。(参考記事:「緊急激論!“クマムシvs極限環境微生物”」)

参考:米原万里公式サイト

(2017/02/26)


【26冊目】Data

  マイナス50℃の世界

    米原 万里(よねはら まり)

  角川ソフィア文庫

  平成24年1月

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